2006年 05月 06日
自分の手を離れる、という救い |
しばしの旅行の間、印象に残った言葉から。
資生堂アートハウス『鈴木 治 作品展 -抽象陶芸と用の器』での、鈴木治氏の言葉。
正確に記憶してないが、主旨としてこんなことを仰っていた。
陶芸をはじめ”作品”に完成形はない。
陶芸とは、自分の手を離れる、使われる、ということが救いだ。
絵を描く人はよく自分の手元の絵と格闘し自殺する場合がある。
絵は自分で自分でしかないからだ。
あれ、この感じ。
これは私の取り組んでいる建築と、あ、その感じわかると、ふと、思った。
建築の価値は、”経験の絶対感”にあると思う。
建築とは、そこに根をおろし、たたずむもの。そこに存在する意味(施主の存在や使われる目的や使いたい夢など)があって存在する。
そこに住むこと、訪ねること、時間を過ごすこと、身をゆだねること、
そこにしかない”経験”の”絶対的な宜しさ”、それは感覚という感覚すべてを駆使した、圧倒的な体験だったり、静かな底知れぬ力強さ、雰囲気、使っている人の表情も。
建築は人がその空間にたたずんで意味が発生する。
私は、よく建築を見に行くと、その状況、建築が生まれることによって生まれる状況を見に行った気がする。先のエントリーのアアルトの図書館、何十年前に建てられたその建築は市民の生活の中心として市民の生活の中に溶け込んでいた。
建築は経験すること、触れることに価値がある。
そういった意味で考えると、
建築は
自分の手を離れた状態も、見る事ができる、めちゃくちゃ幸せな仕事だと思うし、
逆に言えば、使い手の表情も、建築のあり様もすべて見えてしまう、
結果がすべて自分に帰ってくる、めちゃくちゃ厳しい仕事だと思う。
そんな中、鈴木氏の展示では、ご子息が使った習字のお稽古の水入れや、毎年の干支の香合など、氏のご自宅で使われた器が多いことに、目を奪われた。
氏は、自分から離れていった器(どこかでだれかが使う器)を、どのような想いで思い、
自身の作品の、周りにある器から、何を感じていたのか。
ところで、
今の”造形の新しさ”に価値を求める、風潮(コンペや流行を見ても)は、ちょっと違うんじゃないかと思う。だって、”経験の絶対感”のつくりかた、と”造形の新しさ”のつくりかたは、全然つくりかたが違うんだもの。分かりやすい評価でしか評価されないなんて虚しい、じゃないか。
資生堂アートハウス『鈴木 治 作品展 -抽象陶芸と用の器』での、鈴木治氏の言葉。
正確に記憶してないが、主旨としてこんなことを仰っていた。
陶芸をはじめ”作品”に完成形はない。
陶芸とは、自分の手を離れる、使われる、ということが救いだ。
絵を描く人はよく自分の手元の絵と格闘し自殺する場合がある。
絵は自分で自分でしかないからだ。
あれ、この感じ。
これは私の取り組んでいる建築と、あ、その感じわかると、ふと、思った。
建築の価値は、”経験の絶対感”にあると思う。
建築とは、そこに根をおろし、たたずむもの。そこに存在する意味(施主の存在や使われる目的や使いたい夢など)があって存在する。
そこに住むこと、訪ねること、時間を過ごすこと、身をゆだねること、
そこにしかない”経験”の”絶対的な宜しさ”、それは感覚という感覚すべてを駆使した、圧倒的な体験だったり、静かな底知れぬ力強さ、雰囲気、使っている人の表情も。
建築は人がその空間にたたずんで意味が発生する。
私は、よく建築を見に行くと、その状況、建築が生まれることによって生まれる状況を見に行った気がする。先のエントリーのアアルトの図書館、何十年前に建てられたその建築は市民の生活の中心として市民の生活の中に溶け込んでいた。
建築は経験すること、触れることに価値がある。
そういった意味で考えると、
建築は
自分の手を離れた状態も、見る事ができる、めちゃくちゃ幸せな仕事だと思うし、
逆に言えば、使い手の表情も、建築のあり様もすべて見えてしまう、
結果がすべて自分に帰ってくる、めちゃくちゃ厳しい仕事だと思う。
そんな中、鈴木氏の展示では、ご子息が使った習字のお稽古の水入れや、毎年の干支の香合など、氏のご自宅で使われた器が多いことに、目を奪われた。
氏は、自分から離れていった器(どこかでだれかが使う器)を、どのような想いで思い、
自身の作品の、周りにある器から、何を感じていたのか。
ところで、
今の”造形の新しさ”に価値を求める、風潮(コンペや流行を見ても)は、ちょっと違うんじゃないかと思う。だって、”経験の絶対感”のつくりかた、と”造形の新しさ”のつくりかたは、全然つくりかたが違うんだもの。分かりやすい評価でしか評価されないなんて虚しい、じゃないか。
by yuriyururi
| 2006-05-06 13:45
| 建築/architecture